top of page

《MATSUTAKE PROJECT》 (2021)

「MATSUTAKE PROJECT」

 

永友悠稀(Yuki Nagatomo)

はじめに

 この作品にご参加・ご協力いただきました、すべての方に感謝を申し上げます。

 ありがとうございました。

 

《MATSUTAKE PROJECT》について

 

 このヴィデオアートプロジェクト――《MATSUTAKE PROJECT》は、アナ・チン(Anna L. Tsing)の著書『マツタケ 不確定な時代を生きる術(原題:Mushroom at the End of the World)』を基調として企画され、2021年1月中旬から3月下旬まで実施された。

 監督の永友悠稀(Yuki Nagatomo)が制作した映像は、3人のアーティストに送られ、それぞれのルートで映像のバトンを受け取った参加者は、その続きを10~300秒程度で撮影・制作し、リレーのようにまた次のアーティストへとつないでいく。

 このとき、バトンを受け取った参加者が確認できるのは、つないできた直前の1人の映像のみであり、それ以前がどうなっているのか、その続きがどうなるのかを知ることはできない。つまり、この作品がいかなる像を形成しており、どこへ向かおうとしているのか、誰にもわからないのである。

 そうした不確定性と不安定性の中、胞子のように世界を駆け巡った映像をまとめて、1つの作品に仕上げたのが《MATSUTAKE MOVIE》である。

 

 

企画と作品に寄せて

 

 このアート(プロジェクト)にはいくつかの特徴がある。

 まず本作は「特定の結論を目指さないアッセンブリッジ〔寄り集まり〕」である。「不確定性と不安定性」を基調とした、「安泰という保証がない生について探求する」プロジェクト/ヴィデオアートである。

 

  もし、不安定性や不確定性、取るに足らないものと考えるものが、わたしたちが追求するシステムの中核であるとしたら、どうだろう? (中略)
 不安定な状態をとおして考えれば、不確定性もまた、生を可能たらしめるものであることがわかる。

 

 したがって当然「量子の場における仮想粒子のように、複数の未来が可能性から飛び出してくるかもしれない」し、「ただ成長のみから成り立つ一方通行の未来に閉じこめられてしまっている」わけでもない。

 また現代の映画のように、一定の速度のもと、確実に安定した不変の結末を目指すわけでもない。結末のあり様は無限に存在するし、そもそも終わらせることなく永久的に継続させていくこともできる。つまり、〈ハジマリ〉と〈オワリ〉としての〈生〉と〈死〉を超越した次元に位置するといえるのである。

 シュルレアリスムにおける〈優美な死骸〉のように「意図しえぬ設計」であり、なおかつ「開かれたアッセンブリッジ」である本企画には、「ポリフォニー〔多声性〕」が生じる。そしてマツタケの香りのごとく、無限の出逢いと可能性を秘めている。

 

  その存在に対して、わたしたちは反応しているのだ。反応は、つねになにか新しいものへといざなっていく。わたしたちは、もはや、わたしたち自
 身――少なくとも以前のわたしたちではない。他者と出会ったわたしたちなのである。出会いは、本質的に確定できるものではない。

  わたしたちは変容を余儀なくされるが、そのことを予測することはできない。どのようなものかわかったり、わからなかったりと、さまざまなこと

 が入りまじっているけれども、香りは、出会いの不確定性についての有意義な案内たりうるのではなかろうか?

 

 さて、次なる特徴としては、偶発的な邂逅性が挙げられるだろう。

 マツタケのサプライ・チェーンのように、受け取った映像のバトンがどうなっているのか、またそのつないだ先がどう展開するのか、最後まで誰も全体像を把握することができない。

 しかし何かと出会うたび、私たちは変化していくのである。ここで注意すべきは、〈変化〉と〈進歩〉が、必ずしも等号で結ばれる概念ではないということである。

 未来において必ずしも社会が進歩しているとは限らない。ジョージ・オーウェルが示したような退廃も、在り得る未来の形のひとつである。それならば、進歩するために学ぶのではなく、学ぶことで進歩することを目指す、というのはどうだろうか。前者はただ確定した未来を辿ることになるのみであるが、後者は可能性に満ちあふれた、不確定で不安定な道である。

 そのとき、オルタナティヴな学習・研究の在り方が要請されるだろう。その先にはアナ・チンが目指したような、「一緒になにかをすることで学問が生まれるような遊び仲間や協力者の集団を必要とする研究を設計するということ」の種もある。またそうした試みはやがて「科学、より一般的には知識を、コスモポリタンな歴史に対して開いていくこと」にもつながっていくだろう。

 

 このようして、本作品の持つ3つ目の特徴が意味を成す。

 即ち本作は、フォーマットさえ整えてしまえば、最初の映像を用意し、流通の経路を調整するのみで、あとは誰もが幾通りにも実施することができるのである。なおかつその性質上、作品が同じ様相を示すことは、再現を試みない限り決してあり得ない。換言すれば、作品の企画ないし参加を通じて、誰もがアーティストになれる機会を開いているのである。

 

 「出来事を構成するのは、つねに偶発性と時間である」。基盤となる空間は、複数の種が絡まりあって織りなすセカイ、つまり「マルチピーシーズ・ワールド」である。

 そして「アッセンブリッジは融合し、変化し、溶解していく」。それこそが「物語」である。

 

 〈死〉や〈破壊〉は、必ずしも絶対的な終焉ではない。

 希望は未だそこに在る。

 出会いと変化の先には、これまでに知覚することさえ叶わなかった未来が生じうる。

 本作が「不安定と過酷な状況に生きることに立ち返る」ことに、そしてオルタナティヴなセカイの思索と創造に、わずかながらでも勇気を与えられることを願っている。

 

 

 

【引用文献】

アナ・チン『マツタケ 不確定な時代を生きる術』赤嶺淳 訳(みすず書房、2019:ⅵ-ⅶ,4,7,14,25,30,33,72, 216,228,236,426-427)

 

【参考文献】

ジョージ・オーウェル『一九八四年[新訳版]』高橋和久 訳(ハヤカワepi文庫、2009=2020)

吉原直樹 榑沼範久/都市空間研究会編『都市は揺れている――五つの対話』(東信堂、2020)

bottom of page